日本代表が惨敗したブラジルのサッカー

サッカーの日本代表はセレソンと呼ばれるブラジル代表に4-0で敗れた。日本代表のサッカーはパスを回すことに精一杯だった。それなりにボールを支配できていたが、パスのためのパスであった。パスが成功することがパスの目的なのである。これに対してブラジルのサッカーはパスを目的にしていない。目的はあくまでもゴールなのである。パスは敵を切り崩すための手段であり、シュートに至る手段なのである。その動作が美しいのは足技しか使えない格闘技であり、二人一組で演じるダンスであり、またサンバの源流となった音楽でもあるカポエイラの影響があってのことだろう。カポエイラはアフリカからブラジルへ奴隷として連れてこられた黒人たち編み出した護身術である。ダンスでもあるのは護身術の練習をカムフラージュするためであったとも言われている。カポネイラの基本的な動作はジンガであり、このジンガこそブラジルのサッカーの基本になっている。
いずれにせよ、ブラジルにとってサッカーは単なるスポーツではない。スポーツ以上の意味を持っている。「ブラジル人はサッカーの時だけ愛国者だが、ドイツ人はサッカーでしか愛国心を公にできない」という言い方があるそうだが、ブラジルにおいては「国民」という概念を成立させるためにサッカーは不可欠な要素なのである。ブラジルの現代史を紐解けばサッカーなくして「ブラジル人」は成立しなかったことが理解できる。
ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス。1930〜1945年、、1951年〜1954年の二度にわたってブラジル大統領を務め現代ブラジルの基礎を築いた政治家である。ヴァルガスは1930年、大統領選挙には敗北するが、軍部の革新派将校によるクーデタによって政権を掌握する。バルガスが目標に掲げたのは統一国家の建設であった。当時のブラジルは「国民」意識よりも「州民」意識が強かったし、何よりも多様な人種・民族の坩堝であった。確かにポルトガル語カトリックは全土に定着していたが、それ以外に「国民」としてのアイデンティティは見出し難かった。
バルガスが注目したのはサッカーであった。もともとサッカーは白人富裕層のスポーツとして普及していたが、試合で勝利を収めるには、白人だけではない混成チームのほうが強かった。クラブチームは有色人種に門戸を開いていった。その結果、ブラジルのサッカーにカポネイラやサンバの文化が反映していったのである。バルガスはそこに「ブラジル人」の可能性を見たわけだ。バルガスはイタリア系移民の多いサンパウロ州との内戦を制し、1934年に中央集権的な新憲法を公布し、そのもとで正式の大統領となり、1935年から1936年にかけてイデオロギーの「統一」を図るため共産党や左翼を弾圧したが、サッカー選手のプロ登録を義務付ける法律を1933年に導入している。もっとも、この法律は当初徹底されず1934年開催のワールドカップにはアマチュア選手だけの参加となったが、1938年のワールドカップではプロ選手化が実現する。
バルガス大統領は1937年に予定していた大統領選挙を再び軍事力を用いて中止させると、議会も解散させ、「新国家体制」(エスタード・ノボ)とよばれるファシズム的色彩の色濃い独裁政権を確立する。そのもとで外国移民に同化政策を強い、ナショナリズムを強化して国民的統合を目ざしたが、その際に当然のごとくサッカーを利用する。バルガス大統領は全国スポーツ評議会を整備して、サッカーを管轄させる。ブラジルではサッカーはこれぞブラジル人という黒人の選手、もっともブラジル人らしいムラートの選手を白人の選手ともども、ひとつのチームから生み出すことで、(人工的な)民族精神を高揚させる役割を政治によって担わされたのである。こうして個人技を優先させながらも、統一感を失わないディオニュソス型の美しいサッカーが鍛えられていった。
戦後に政権を担った民主社会党とブラジル労働党バルデス大統領の精神を引き継ぎ一貫してサッカーの振興策をつづけた。ブラジルにとってサッカーは政治と不可分の関係にあるというよりも、国民国家を維持する政治の一部にほかならなかったし、今でもそうであろう。ブラジル人はサッカーを芸術(アルチ)たど言うが、誤解を恐れずに言えばブラジルにとってサッカーは政治なのである。政治が臨機応変と狡賢さを必要とするようにブラジルのサッカーに臨機応変と狡賢さは不可欠なのである。
1950年のワールドカップはブラジル開催であったが、ブラジルは決勝でウルグアイに惜敗する。ブラジルがワールドカップを制するのは1958年のスウェーデン大会、1962年のチリ大会も優勝して二連覇を飾る。1954年にピストル自殺を遂げたバルガス大統領はブラジルのワールドカップ制覇を見ることなく、この世を去った。