アルジェリア人質犠牲者の実名を匿名で報道する非対称性について

私の場合、仕事で外国を訪ねることはないから、旅行ということになるだろう。その旅先でイスラムゲリラの襲撃に遭遇し、命を落としてしまったとする。死者に口なしだから、私の意志が反映されることはないにしても、私が殺されたということを実名で公表しなかったならば、それは嫌だ。私という人間がゲリラによって殺害されたことを報道してもらいたいと思う。できれば、私がどんな人間であったかも記事で触れてもらいたいと思う。しかし、私の家族はどうだろうか。私が殺されたということで、それなりの悲しみに打ちひしがれるに違いない。しかも、友人や親戚から次々と連絡が来て同じようなことを話し続けなければなるまい。そんなところにマスメディアが大挙して押しかけたならば精神的な苦痛以外の何ものでもないはずだ。そういう意味で私の実名が公表されることを是とはしまい。むろん、これは私のケースであって、他者にも当てはまるものではない。私とは逆に実名の公表は控えてもらいたいと考える人もいるだろうし、私の家族とは逆に積極的にマスメディアの取材に応じるという人もいるだろう。実名の公表は構わないがマスコミのメディアスクラムに晒されるのだけはゴメンだと考える人もいて当然だろう。いずれにしても、そうした個別の心情をマスジャーナリズムが報道に際してどれだけ尊重してきたかといえば、私は首を傾げざるを得ない。被害者に寄り添うといったところで、頭や腰の高い姿勢で寄り添われたならば被害者からすれば不快きわまりないことであろう。
東京新聞は1月23日付社会面でアルジェリア人質事件で日本政府が遺族や日揮の意向を踏まえ犠牲者の氏名や年齢を公表しなかったことに賛否両論があることを伝えた。曰く

「公表するかは政府でなく、報道機関の判断に委ねるべきだ」との批判がある一方、「遺族保護が最優先」と政府の判断を支持する声もある。

樋口薫、中山高志という両記者によるこの記事によれば「2001年の米中枢同時テロの際は、日本人犠牲者24人のうち遺族が応じた9人の氏名が公表された。加えて、報道や現地発表などで明らかになった事例もある」という。今回も前日の朝日新聞の報道や今日の東京新聞の報道では犠牲者の実名を公表しながら報道している。

66歳技術者、正月の帰国最後 1月22日付朝日新聞

優しい弟…「無念」 1月23日付東京新聞

犠牲者自身がこうして取り上げられることを是とするかどうかは本人に確認のしようがあるまい。ただ私が気になったのは朝日新聞の記事にせよ、東京新聞の記事にせよ、ともに匿名原稿であったことである。東京新聞の場合は犠牲者名の非公表に賛否があるという記事は署名でありながら、犠牲者名を公表しての記事には署名がなかった。書かれる側の名前は刻まれ、書く側の名前はどこにもないという「非対称性」が私には解せない。この場合、記事を匿名にするということは犠牲者の実名を公表した責任から逃れるためのものとしか私には思えない。報道にとって何よりも大切なのは公正さであるはずだが、記者の名前を伏しての実名公表は少なくとも公正さに欠けているのではないか。こうした「非対称性」が罷り通る限り、犠牲者名に関してマスメディアは非公表を原則にすべきなのではないだろうか。もちろん、故人の意志は反映されないだろうし(その無念を私などは想像してしまう)、実名公表の同意は被害者家族から得なければ記事にすべきでないのは当然にしても、署名と匿名を使い分けるような新聞に実名報道の資格などないはずである。そういうやり口は記者という立場を特権化しているのだということに朝日新聞東京新聞は未だに鈍感なのである。この点、実名公表の資格を持つのは全国紙では署名記事を原則としている毎日新聞だけであろう。しかし、次のような毎日新聞小川一の意見には断固として同意できない。

亡くなった方のお名前は発表すべきた。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない。

新聞が犠牲者の実名を公開することが弔いになる?新聞が犠牲者の名前を公表するのは新聞の「私利私欲」によってでしかあるまい。そうすることが読者の支持を得られるから、つまりビジネスとしてプラスになると判断するから公表するのではないのか。商業新聞社のたかだか社員のくせに総ての実名公表が「弔い」になるなどと「腰高」に言わないでもらいたいものである。「弔い」になるケースもあれば、「弔い」にならないケースもあるのだ。新聞はいつから靖国神社になったのか!こうした物言いは私をひどく不快にさせる。次のような小川のツイートが戦争に翼賛するしかなかった戦中期の新聞と全く同じ論理と心情に貫徹されていることに小川自身は気がついているのだろうか。「間違っているのかも知れません」ではなく、小川は間違っているのだ。

私は遠く離れたアルジェリアで、非業の死を遂げた勇敢な同胞のために泣きたい。日本人全員と一緒に悲しみたい。私はそれこそが悼むことであり、弔うことだと思うのです。間違っているのかも知れません。それはみなさんにいただいたご意見を読みながら、また考えてみます。以上です。

実名に対して匿名ではなく実名で対応している新聞社で社会部長を経験している記者にしてからが、この程度の認識しか持ち合わせていないことに私は愕然とせざるを得ないのである。私は前言を撤回しなければなるまい。私がもし海外旅行でゲリラの犠牲になったならば、実名を公表されることを拒否したい。