【追悼】中川六平さんのこと

私はいつものように7時14分に下総中山駅から総武線に乗った。市川で座ることができ、今日はツイているぞと思いながら東京新聞を読んでいた。ちょうど8月末に河内音頭の舞台となった錦糸町駅を過ぎたあたりであったと思う。ケータイ電話が激しく振動をはじめた。講談社のNからであることがわかった。私はマナー違反を承知で電話に出ることにした。こんな時間にNから電話がかかってくるということは、用件はただひとつだろう。だからからなのかもしれない。「もしもし」という言葉が即座には発することができなかった。「Nです」という言葉で我に返ったか、私のほうから何か言葉を発したのか。昨日の出来事であるにもかかわらず、もはや私の記憶に残っていない。Nが確か「移動中?」と言ったはずである。Nが「今、電話、大丈夫ですか?」と私に聞いた辺りから私の記憶が蘇る。それはそうだろう。Nが私に伝えようとした事実はたた一つ。それは私が予想していた通りのことだった。中川六平が亡くなったのだと。
1月に亡くなった赤石憲彦に30年前に出会わなければ私のライスワークはペンとは縁のないものになっていただろう。同じように中川六平と30年前に出会わなければ私のライフワークはペンと縁のないものになっていただろう。二人とは東京タイムズで出会った。
今から30年前、私は業界誌の世界に足を突っ込むことになったのだが、私の仕事場は新橋の東京タイムズであった。私は東京タイムズの社員ではなかったが、業界誌を経営する赤石が東京タイムズの営業本部長でもあったからだ。
赤石は社内では「権力者」ではあったが、所詮、外様であり、社員たちから内心では疎まれていることはすぐにわかった。その結果、私は誰からも相手にされなかったというよりも邪魔者扱いされた。
そんななかで私に声をかけてくれた唯一の記者が中川六平だった。
「○○○○を知っている?」
○○○○が谷川雁であるのか、柄谷行人であったかは忘れた。たまたま私が○○○○の本を読んでいたこともあって(何しろ初めて東タイの記者から声をかけられたのだ!)、私は知っている限りのことを中川六平に語った。私の話を聞き終わった中川が私に言った。
「時間ある? ちょっと飲みに行こう」
こうして中川とのつきあいがはじまった。中川六平には実に様々な人たちを紹介してもらった。そのなかの一人が朝倉喬司であり、緒方修であり、徳間書店の面々でありというように。
当時、中川六平は私と飲むたびに「何かテーマを見つけてコツコツ、コツコツと書きためておくんだよ」と私に言った。そのテーマのひとつが三角寛となるわけだが、これも中川六平が東京タイムズを退社し、サンカ研究会を立ち上げたことに起因する。そう三角寛について書きなよとすすめてくれたのも六ちゃんであったのだ。
私が神保町に小さな事務所を3月から構え始め、中川六平も神保町の出版社の顧問に就任した。そんなこともあって六ちゃんは神保町に出社する日には必ず私の事務所に立ち寄った。次第に滞在時間が長くなったのは鶴見俊輔をテーマにした原稿の推敲をこの事務所ではじめたからだ。
「初めてだよなあ、こうして今井と机を並べて仕事するのは。うん、独立して良かったんだよ。でも次も書き始めなければ駄目だぜ」
7月某日、そう中川六平は私に言った。合掌。