【文徒】2020年(令和2)11月2日(第8巻203号・通巻1860号)つづき

毎日新聞が10月29日付で掲載している「特集ワイド 学術会議問題――井筒監督 若者よ、立ち上がれ キナ臭いよな 権力むき出しの暴力」(鈴木美穂)で時代の空気にキナ臭さを感じているという映画監督の井筒和幸は次のように語っている。
《世の空気はなぜ変わってしまったのか。井筒さんは易しい言葉で核心を突く。「これって『作られた』空気だよな」と。表現の自由言論の自由が一見侵されていない「ふう」を装いながら、忖度(そんたく)や自粛の形で同調を迫る。井筒さんは「結局、日本って村社会のまま。日本人も村意識が抜けていないの。
たとえ1人でも村外れに遊びに行くヤツがいたら、残りの村民は血眼で捜そうとする。ほったらかしにはしてくれないの。はみ出した人がすごい発見をするかも。そもそも社会全体ウソっぽいんだし、はみ出す人がいてもいい。だけど、村にはそんな発想がハナからないの」。》
https://mainichi.jp/articles/20201029/dde/012/010/033000c
ムラ社会や世間が21世紀に至るも何故に温存されてしまっているのか。日本という国家の地理的な条件を指摘しておかなければなるまい。島国であるということだ。いくら世界は近くなったとはいえ、他国と地続きではないという地理的条件がもたらすムラ意識や世間の同町圧力を醸成してしまっているのだ。その結果、国家ごと世界から疎外されてしまう悲劇に直面してしまうのだ。
春オンライン」は10月29日付で坂田拓也の「仏メディアも『なぜもっと抗議しないの?』学術会議問題、菅首相が“逃げ切れる”理由」を発表している。
《こうして当事者のみならず、多くの学会や研究者が任命拒否は「違憲」「違法」と主張している。しかし裁判に訴えるまでに至らない。なぜなのか。》
https://bunshun.jp/articles/-/41155
首相を支える官僚たちに舐められてしまう所以である。朝日新聞ジタルが10月29日付で掲載している論壇時評「任命拒否、500学会の抗議声明を読んで」で津田大介が指摘しているように「学術会議も戦い方を変えなければ世論の支持は得られず、単に政権に飲み込まれて終わる」はずだ。津田大介は、こうも書いている
《世界で初めて情報公開制度を始めた古代ローマカエサルの知見から、ギリシャ悲劇、カフカソルジェニーツィンまで縦横無尽に引き、流麗な体で権力と暴力の本質を暴いたイタリア学会の声明は、数多(あまた)ある学協会声明の中でもとりわけ異彩を放つ。豊かな学的想像力にあふれるこの章を読めば、なぜ菅政権が理由を明かさぬまま任命拒否を強行するのか、「説明と情報公開が民主主義を支える命」であるのか十二分に理解することができるだろう。》
https://digital.asahi.com/articles/ASNBX4HGYNBVUCVL00W.html?ref=mor_mail_topix1
イタリア学会の声明を読んで私もそう思った。須賀敦子とともに「神曲」を翻訳した藤谷道夫が書いているようだ。長大な章であるため全は引用できないが、こんなところを引用しておこうか。
《私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)と見解を示している。しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。
「執政官に就任して(前59年)、まずカエサルが決めたことは、元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)これが民主主義への第 1 歩である。それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
一方、その時代から2000年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、書は改竄・捏造、削除され続けてきた。確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、人事異動のプロセスも民草には窺い知ることもできなかった。おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。》
http://studiit.jp/
http://studiit.jp/pdf/%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%EF%BC%88%E7%90%86%E7%94%B1%E4%BB%98%E3%81%8D%EF%BC%89.pdf
毎日新聞は10月30日付で掲載している「#排除する政治~学術会議問題を考える『独立性が揺らぐ事態 任命拒否はありえない』 吉川弘之・元学術会議会長」(永山悦子)で、東京大名誉教授の吉川弘之は「任命拒否を知ったとき、どう思いましたか」という問いに答えて次のように語っている。
《ありえないことで、何かの間違いかと思いました。海外でも会員の選考はアカデミーの自由に任されていて、政府や王室がそれを追認する形です。今回は、首相が任命拒否された6人の名前が入っていない名簿しか見ていないとか、事務方と事前に(任命に関する)考え方を共有していたとか、次々と聞いたこともないようなことが出てきて、「これは大変だ」と思いました。日本学術会議は法律で定められているように、「独立に職務を行う」という世界のアカデミーのルールに従っていて、会員選出を会議自身で行うことは重要な要件です。》
https://mainichi.jp/articles/20201029/k00/00m/010/160000c
毎日新聞は10月31日付で「#排除する政治~学術会議問題を考える 気に入らない生を廊下に立たせる先生でよいか 作家・あさのあつこさん」(山内真弓)を掲載している。
《「政権に逆らうと、こういう目に遭いますよ」ということを露骨に示したとしか思えません。学者を萎縮させて力で従わせようというわけでしょう。権力者が一番やってはいけないことを堂々と任期の初めにやったわけです。
同世代の友人が「気に入らない生を先生が廊下に立たせるのと同じだね」って言っていました。「お前がいると授業が進まないから出てろ」みたいな感じでしょうか。感情で言った言葉にはっきりした理由はないですよね。》
https://mainichi.jp/articles/20201029/k00/00m/010/150000c
菅政治は数の力をもって言葉を殺したのである。

朝日新聞は10月31日付で掲載している社説「学術会議問題 首相答弁の破綻明らか」で次のように書いている。
《与党にも苦言を呈され、首相は「多様性が大事だということを念頭に判断した」と言うようになり、国会でもそう述べた。
法律が会員の要件とするのは「優れた研究又は業績」だけだが、多様性が大切だとしても、同じ大学に籍を置き、年齢も近い別の学者は任命されている。拒まれた人との違いはどこにあるのか。6人の中には多様性につながる女性や私大の教授もいる。そうした人材をなぜ排除したか。論理の破綻は明らかだ。》
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14678164.html?iref=pc_rensai_long_16_article
北海道新聞は10月31日付で掲載している社説「学術会議問題 国会軽視の論点そらし」で次のように書いている。
《際立ったのは、首相が日本学術会議の会員任命を一部拒否した問題で、国会軽視とも言える答弁を続けたことだ。
任命拒否の具体的な理由を再三問われたが「人事に関することで答えは差し控える」と繰り返し、問題の核心に口を閉ざした。
看過できないのはそれだけではない。問題をすり替え、論拠を欠く説明に終始していることだ。
日本学術会議法では、学術会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定め、独立性も明記している。野党が「任命拒否は違法」と追及したのは当然だ。
だが首相は「総合的、俯瞰的に判断」「多様性が大事ということを念頭にした」と正面から答えず、組織見直しに論点をそらした。》
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/476701?rct=c_editorial
信濃毎日新聞は10月28日付で掲載している社説「学術会議人事 正当化の無理があらわだ」で次のように書いている。
日本学術会議の会員の任命を菅義偉首相が拒否した問題は、政府の説明のほころびが一層あらわになった。学問の自由と独立を侵す任命拒否を撤回するよう、あらためて首相に求める。》
《いま問われるべきは首相の姿勢であって、学術会議のあり方ではない。何より菅首相は6人を除外した理由を明確に示す必要がある。》
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20201028/KT201027ETI090010000.php
京都新聞は10月30日付で掲載している社説「任命拒否の説明 疑念は深まるばかりだ」で次のように書いている。
《異論に耳を傾けない政権の姿勢が、ますます浮き彫りになったのではないか。
菅義偉内閣発足後、初めての本格的な国会論戦が始まった。菅氏は日本学術会議の任命拒否を巡る野党からの追及を「個々人の任命理由は答えを差し控える」とかわし続けている。
きのうの参院本会議の代表質問でも、「任命は法に沿って行った」「推薦通りに任命する義務はない」と従来の発言を繰り返した。任命の判断を変更するかについては「考えていない」と突っぱねた。
自らの判断を説明しようとする姿勢に欠け、不誠実と言わざるを得ない。》
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/395395
沖縄タイムスは11月1日付で掲載している社説「[学術会議任命拒否]矛盾に満ちた首相答弁」で次のように書いている。
《首相が従来の法解釈を逸脱して任命拒否したことは明白だ。だが首相は、その理由を最初は「総合的、俯瞰的に」と曖昧に語り、国会では「多様性」を持ち出した。後付けの理由で切り抜けようとしている印象を拭えない。》
《政府は一貫して、任命拒否に当たり法解釈を変えておらず従来の立場と齟齬はないとするが、想定されていなかったことが今回できたのはなぜか。その説明は政府の責任だ。「説明できないこともある」で済ませてはならない。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/656794

毎日新聞10月31日付の「今週の本棚・著者に聞く」は「日没」(岩波書店)の桐野夏生だ。
《2011年3月の東日本大震災以降、原発事故や政治的な動きを禁忌のように扱う風潮に違和感を覚えていたという。「感じたことを書くのが作家の使命なのに、それを覆い隠して何事もなかったように書けるなら、その方が不思議。いつの間にか、禁忌に法的根拠ができていて、抵触した作家が収容される物語はどうだろうと考えた」。作家たちから「表現の自由が奪われた近未来を描き、読み手に恐怖の爪痕を残す。》
https://mainichi.jp/articles/20201031/ddm/015/070/012000c
岩波書店の「思想」11 月号の特集は「桐野夏生の小説世界」だ。「読書人」編集者・明石健五が呟いている。
《巻頭の思想の言葉も含めて、一冊まるごと桐野夏生。これは画期的。》
https://twitter.com/kengoa1965/status/1320249345904496640
「思想の言葉」を書いているのは沼野充義だ。全が公開されている。
《『日没』は、めりはりの利いた比較的単純な筋書きと人物構成に支えられているだけに、自意識過剰になってしばしば何が論点であるのか曖昧にならざるを得ないいわゆる「純学」よりも鮮やかに、現代社会にとって喫緊の問題をいくつも私たちに突き付けてくる。いや、誤解を避けるためにあらかじめ強調しておきたいのだが、私は「エンタメ」「純学」といった伝統的なジャンル分けはとっくに有効性を失っていると考えているので、ここで言いたいのは、そういった区分を超えて『日没』が本質的な問題を提起しているという意味で、本物の学だということだ。》
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/4099

讀賣新聞は10月30日付で「本の『函』 存続の危機…専業メーカー廃業へ」を掲載している。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201030-OYT1T50184/
岩波書店が引用ツイートしている。
《「本の「函」を専業で作る東京の老舗メーカーが今月で廃業し、約100年の歴史に幕」
10/30読売新聞夕刊に、加藤製函所さん廃業の記事が掲載されました。見事な職人技で幾多の書函を手掛けてくださった、小社にとって大切な存在です。長年のご尽力に心より御礼を申し上げます。》
https://twitter.com/Iwanamishoten/status/1322387931416453120
加藤製函所の創業者・加藤政次郎は次のように書いている。
《かような訳で函の需要が増加して参りましたので順次拡張致して居りましたところ昭和二年改造社の日本学全集が爆発的人気で一気に四十萬部予約の申込みがあり全部の函を引き受けましたので近隣の家を六軒ばかり買収致し間口十三間奥行八間総三階建の新工場を建設し機械も数十台動力掛けで印刷部迄有る業界随一の設備と能力を有し書籍用紙函の大量生産に専心することになりました。
又、新潮社の世界学全集も四十五万部程の予約があり其後世界大思想全集十万、明治大正学全集十五万、大衆学全集弐拾万部等殆んど手が附けられない程の多数の出版物が続出し当社の書籍用紙函大量生産方式は時季を得まして益々大発展致しました其后にも普及版大菩薩峠十万、マルクス資本論、長篇小説全集、漫画全集、一平全集、ユーモア全集、朝日新聞社の(朝日常識講座)日本評論社(法学全集)中央公論社の(シェクスピア全集)改造社(経済学全集)等続出しましたので設備の充実に鋭意努力致しましたので昭和四年頃には相当の生産力を持ち自家用の大型トラツクにて紙函の運搬を致しましたのは当社が始めてだつたと思います。》
http://katoseikan.com/katoseikankeirekisyo.html
http://katoseikan.com/index.html
小出鐸男の「日本における書籍函の盛衰について」は次のように書いていた。
《函の需要が出版物の量産化につれ増えることは容易に察しがつくところだが,第2次大戦前では1926年から始まった“円本”の氾濫,同大戦後にあっては1970年代がピークだった百科事典を始めとする各種全集のラッシュが,牽引役をつとめ飛躍的な発展を促した.最盛期には,装飾を主眼とした内函と保護を目的にした外函の重,あるいは函とカバージャケットの併用という形式も見られるようになった。
 しかし書籍の造本上の高付加価値化が敬遠され,コスト引き下げが求められる今後,函の存在がどうなるか。すでにその兆しがみられるように,中身の本を保護するための実用一点張りの函とブッタデザインの一環である装飾的なものとに二極分化していくだろう.また函業界としては,CD-ROMや各種の教育用品の箱など本に代わる分野への進出を目指すだろうが,出版物専業の”函屋”が減っていくのは間違いない。》
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshuppan/27/0/27_153/_pdf
私が最もステキだと思ったのは河出書房新社埴谷雄高作品集の函である。

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7)【深夜の誌人語録】

馬鹿は利口の始まりだが、小利口は救いようのない馬鹿である。